下級武士の次男が、なぜ”日本近代化の父”になれたのか。福沢諭吉、学び続けた生涯

偉人の格言

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」——日本人なら誰もが聞いたことのあるこの言葉を書いた福沢諭吉。40年にわたり一万円札の顔を務めた偉人ですが、その出発点は決して恵まれたものではありませんでした。

身分が低い武士の家に生まれ、父を早くに亡くし、お金もコネもなかった少年。彼が頼れたのは、ただひとつ——「学ぶこと」だけでした。本記事では、マナピヨ学園のピヨタと一緒に、福沢諭吉の人生をたどりながら、現代の私たちが学べることを探っていきます。

ピヨタ
ピヨタ

先生〜!福沢諭吉って、あの旧一万円札の人ですピヨよね!慶應義塾の人で、すごくエリートなイメージがあるんですけど、最初は恵まれてなかったんですかピヨ?

コケ先生
コケ先生

福沢諭吉ほど「学びの力で人生を変えた人」はおらん。今日は彼の人生を変えた3つの大きな転機を見ていこうかの。

プロローグ:”身分の壁”に怒りを抱えた少年時代

福沢諭吉は1835年、現在の大分県中津市にあたる中津藩の武士の家に生まれました。ただし武士といっても、家の格はとても低く、父の年収(石高)はたったの13石。今のお金に換算すると、年収100万円前後のイメージです。

学問が大好きだった父・百助は、才能があっても身分が低いという理由だけで出世の道を閉ざされ、無念のうちに亡くなります。福沢はまだ1歳半でした。

母と子ども6人で中津に戻った一家は、周囲から冷たい目で見られながら、下駄作りの内職をして暮らしていきます。福沢は晩年の自伝『福翁自伝』の中で、当時のことをこう振り返っています。

——「家柄で人生が決まってしまう身分制度は、親の敵だ」と。

この怒りが、福沢の人生を動かす原動力になりました。14歳で中国の古典を学ぶ「漢学」(当時の武士の基礎教養)を学び始めると上達は早く、19歳で長崎へ蘭学(オランダの学問)を学びに出ます。そして翌年、大阪にある緒方洪庵の「適塾」という名門塾の門を叩くことになります。

ピヨタ
ピヨタ

才能があっても身分が低いだけで出世できないなんて…福沢さん、子供の頃からずっと悔しかったんピヨね。

コケ先生
コケ先生

その悔しさが、福沢を「学び」に向かわせたんじゃ。ここから先は、人生が大きく変わる3つの転機を見ていこうかの。

【転機①】適塾での猛勉強——学びだけが、身分の壁を超える武器だった

適塾は、当時の日本で最先端の学問を教えていた塾。のちに「日本陸軍の父」と呼ばれる大村益次郎をはじめ、幕末から明治を動かした人材を大勢輩出した名門です。ここに、20歳の福沢がやってきます。

とにかく勉強は壮絶でした。塾にオランダ語の辞書はたった1冊しかなく、塾生全員がその1冊を奪い合うようにして使っていました。福沢は疲れ果てると机に突っ伏してそのまま眠り、起きたらまた勉強を再開するという生活を繰り返していたと、自伝に書いています。枕を使った記憶がないほどだったそうです。

夏はエアコンも扇風機もない時代。大阪の蒸し暑い2階で、ほぼ裸になりながら汗だくで勉強を続けたとも語っています。

この猛勉強が実を結び、福沢はわずか3年で塾長(塾生のトップ)に昇り詰めます。身分の低さは関係ありません。実力で認められたのです。

現代の私たちに置き換えると
本気で何かを変えたいなら、本気で学ぶ時期が必要です。「そこそこの努力」では人生は変わりません。福沢の適塾時代は、まさに「人生を変えるための集中投資期間」でした。資格勉強、読書、新しいスキルの習得——何であれ、本気でやり抜いた時間は、必ず未来の自分を支えてくれます。

ピヨタ
ピヨタ

辞書が1冊しかないって…!今はスマホで何でも調べられるのに、それを考えるとすごい環境ピヨ。そこで塾長になるって、本気度が違うピヨね!

コケ先生
コケ先生

だがの、福沢はここで一つ、大きな挫折を味わうことになるんじゃよ。

【転機②】オランダ語が通じない——25歳、ゼロからの英語独学とアメリカの衝撃

1858年、23歳の福沢は藩の命令で江戸に出て、築地に蘭学塾を開きます(これが慶應義塾の始まり)。順調に見えた福沢の人生に、衝撃が走ったのはその翌年でした。

外国人が多く住む横浜を訪れた福沢は、ある事実に気づきます。外国人は誰もオランダ語を使っていない。街の看板すら読めない——。世界の共通語は、オランダ語ではなく英語だったのです。

何年もかけて必死に学んだオランダ語が、現場ではまるで役に立たない。普通なら心が折れてもおかしくない場面です。しかし福沢はその日のうちに決断しました——ゼロから英語を学び直すと。

英語を教えてくれる先生は周囲にいません。福沢は、英語とオランダ語の対訳辞書を頼りに、完全な独学で英語を身につけていきます。

そして1860年、25歳のとき、幕府の使節団に自ら志願して咸臨丸でアメリカへ渡航します。サンフランシスコで福沢は、日本とはまるで違う社会を目の当たりにしました。

特に衝撃を受けたのが、「初代大統領ワシントンの子孫は今どうしていますか?」と尋ねたときのこと。アメリカ人は「さあ、知らないね」とあっさり答えたのです。日本では将軍の血筋が絶対的な権威を持つのに、アメリカでは大統領の子孫であっても特別扱いされない。血筋や家柄ではなく、個人の実力が重視される社会——福沢が幼少期からぶつかり続けた「身分の壁」が、この国には存在しなかったのです。

その後、1862年にはヨーロッパ6カ国を視察、1867年には再びアメリカへ。3度の海外体験で得た知識と確信が、福沢のその後の活動の土台になります。

現代の私たちに置き換えると
「せっかく学んだのに、それが通用しない」——こんな経験は、現代の社会人にも起こります。技術の進歩で過去のスキルが使えなくなったり、転職先でこれまでのやり方が通じなかったり。そのとき、過去にしがみつくのか、ゼロからやり直す覚悟を持てるか。福沢は迷わず後者を選びました。学び直す力こそ、本当の意味での「実力」なのかもしれません。

ピヨタ
ピヨタ

何年もかけたオランダ語が使えないと分かった日に、もう英語を学び直す決断をしたピヨ!?切り替えが早すぎピヨ!

コケ先生
コケ先生

この「学び直す力」こそ、福沢の真骨頂じゃ。そして海外で得た確信をもとに、彼はいよいよ、日本の教育を変えるための行動に出るんじゃよ。

【転機③】砲声の中で講義を続けた男——慶應義塾と『学問のすすめ』

1868年、33歳の福沢は、自分の塾に時の年号をとって「慶應義塾」と名付けます。塾生から毎月授業料を集めて学校を運営するという、日本初の仕組みを取り入れました。現在の慶應義塾大学の始まりです。

しかしこの年、日本は大きな内戦の最中にありました。上野で旧幕府軍と新政府軍が激突し(戊辰戦争)、大砲の轟音が東京中に響き渡っていたのです。

塾生たちは当然、動揺します。しかし福沢は講義をやめませんでした。大砲の音をBGMに、経済学の原書を淡々と教え続けたのです。

戦争が終わると、明治新政府から何度も「政府の役人にならないか」と誘いがきます。しかし福沢は、すべて断りました。渋沢栄一が官僚を辞めて民間に飛び込んだように、福沢もまた、権力ではなく「教育」で日本を変える道を選んだのです。

そして1872年、福沢の代表作にして日本の歴史を変えた本が世に出ます。

『学問のすすめ』

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」——この書き出しで始まる本は、生まれながらに上下の差はないのに、なぜ貧富の差や身分の差が生まれるのか? それは学問をするかしないかの違いだ、と説いています。

全17編で、合計約300万部。当時の日本の人口は約3,500万人ですから、ざっくり10人に1人が読んだ計算になります。空前のベストセラーでした。

福沢はこの本を、庶民でも買えるように1冊ずつ安い価格で販売し、漢字には読み仮名を振って、誰でも読めるように工夫しました。「学び」を特権階級だけのものにせず、すべての人の手に届けたかったからです。

1901年、脳出血により66歳で逝去。最期まで教育と啓蒙活動を続けた生涯でした。

現代の私たちに置き換えると
周囲が混乱しているときこそ、自分がやるべきことに集中する。そして、自分が得た知識は独占せず広げる——。福沢は身をもってこの2つを実践しました。自分が学んだことを、同僚や後輩に共有する。ブログやSNSで発信する。小さなことでも「知識を広げる行動」は、巡り巡って社会全体を豊かにします。

ピヨタ
ピヨタ

300万部のベストセラーって、今でいうと超バズってるピヨ!

コケ先生
コケ先生

本の値段を安くして、ふりがなまで振ったんじゃ。「学びは全員のもの」という信念を、最後まで貫いた人じゃったよ。では最後に、福沢の人生から私たちが学べることを整理してみようかの。

福沢諭吉の人生から学べる3つのこと

3つの転機を振り返ると、時代を超えて通じる教訓が見えてきます。

学び1:”悔しさ”は、人生最大の燃料になる

才能があっても身分が低いというだけで報われなかった父。その無念を胸に、福沢は生涯学び続けました。理不尽な経験を「自分を動かすエネルギー」に変えられる人は強い。もし今あなたが仕事で悔しい思いをしているなら、それは次のステージへ進むための燃料かもしれません。

学び2:”学び直す力”こそ、最強のスキル

何年もかけて身につけたオランダ語が使えないと知った日、福沢はその日のうちに英語の独学を始めました。過去の努力にしがみつかず、今この瞬間に必要なことを学び直す——。テクノロジーが急速に進化する現代こそ、この「学び直す力」が問われています。

学び3:知識は、独占せず広げるほど価値が増す

『学問のすすめ』を安く売り、ふりがなを振り、庶民の手に届けた福沢。知識を自分だけのものにせず、みんなで共有することで社会全体が豊かになる。この考え方は、現代のビジネスにも通じます。自分だけが得する行動より、周りを巻き込む行動の方が、結果的に大きなリターンを生むのです。

福沢諭吉の人生、一言でまとめると
「生まれた場所は選べない。でも、何を学ぶかは自分で選べる」——この一言に尽きます。

コケ先生
コケ先生

福沢諭吉を描いた旧一万円札を引き継いだのが、前回の記事で紹介した渋沢栄一じゃ。2人とも「学んで、行動して、社会を変えた」という点では共通しておる。福沢の思想をもっと知りたい人は、代表作の『学問のすすめ』を読んでみるのもおすすめじゃぞ。

ピヨタ
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

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